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Новая Заря / ノヴァヤ・ザリア




Каменный цветок
カーメンヌイ・ツヴェトク

ロシアで一番古いと言われているパフューマリーで、創業は1864年。フランス人のHenri Brocardがモスクワにオープンした石鹸工場が始まりです。・・・あれ? これはBrocardの歴史と同じですよね。第一次大戦後に国有化され、ソビエトらしい名前としてNovaya Zarya(新しい夜明け)と名前を変えました。Henriの父がフランスとアメリカで化粧品を製造していたものの、失敗をしてロシアにやってきたのだそう。ロシアの新興ブルジョワをターゲットに一儲けをしたかったわけです。

 

 

最初は石鹸や歯磨き粉など庶民の化粧品を大量生産し、低価格だったことから大ヒットをします。また、彼の手がけた広告がコミカルタッチだったことも人気に拍車をかけました。そこからなんと、ロシア皇帝ニコライ二世の皇妃をも虜にし、パリ、ニース、バルセロナ他各国の見本市や展示会で8つの金メダルを獲得して成長をしていきます。

 

 

1900年にHenriが亡くなった後、1917年10月の革命後、チーフパフューマーの提案によりにNovaya Zaryaとブランド名が変わったのですが、この辺りでBrocardとの切り離しがされたというか、ブランドが枝分かれしたのではないかと推測します。どのブランドも老舗であることを謳いたいものですよね。特にHenri夫妻には6人の子どもたちがいたそうですから。そこからドイツに移転をしてドイツブランドとなったBrocardと、モスクワに留まって続けたのがNovaya Zaryaだったわけです。

 

 

1913年にロマノフ家の300周年を記念して作られた皇后のお気に入りのブーケが大ヒットし、それ名前を変えてKrasnaya Moskva (Red Moscow)として1925年に発売をすると、全国民が使用したのではないかというほど、空前のヒットとなったと言われています。今でも赤の広場にあるお店では、お土産品として発売されている、ブランドの名刺代わりの香水となりました。

 

 

その後はソビエト全体の64%の生産を占めるまでとなり、成長を続けた結果、現在では国内に40近いショップを運営しています。1900年代半ばまでは見た目も楽しいパルファムを発売していたのですが、いつしかCotyのように安価なカジュアル向けの香りのドラックストア風パフューマリーへと変わりました。

 

 

これは、1958年5月3日に開催された大阪国際見本市の様子です。赤いモスクワや石鹸などが公開されたようですが、1958年にはベルギーのブリュッセルでも国際見本市が開催されていて、そこでソビエトの香水はたくさん賞を受賞したのだそう。そうした流れで日本にも紹介をされてのではないか、というのがロシアの友人からの意見でした。(22/01/2021)


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